昭和五十一年 五月二十二日 朝の御理解
御神訓一、「信心してみかげのなき時はこれぞ不思議なることぞ。」
信心をして、不思議なおかげが現れる。そういうことはないと、信心しておかげを受けるのは不思議ではない、信心して霊験が現れないなら現れない方が不思議だと教えておられるわけです。そこでその信心ということなんですけれども、教祖様が教えて下さる信心とはいわゆる拝むとか参るとかいうことだけではない。信心とはこの方の信心は神人と書くぞよとおっしゃっておられます。神人、信心とは神人。
それはもちろん段階をおうてからのことだけれども、やはり信心とは示されておるように信ずる心であり、信心とは真心であり、信心と神心であるというようにそれはその段階をおうてその信心の内容が変わってくるんです。ですから初めての初心の方達の場合はただ今まで観念しておった神様、仏様とはいわゆる悲しい時に涙涙する、それでもやっぱり一心をたてるからおかげになるというような不思議なおかげが現れるんですけれども、その場においての信心生活の上におかげが頂けたり頂けなかったり。
昨日は久しぶり親教会参拝のおかげを頂いたんです。今度十二月が記念祭にあたりますから記念祭の打ち合わせに。昨日は集まりがありません、何人かしか参ってきておりませんでしたけれども、まあそこで信心のあっちこっちの話を聞きました。今年は大変記念祭が多いんです。たまたま合楽のとにかく信者を起用するということですか、信者を使いこなせる教会がないと。だから信者にどげなん例えば御用の出来る人達があったら色んな御用に使わなければ信者は育たないといったような話がその話を聞かせてもらってたまたま合楽の十三日会の話が出ました。
十三日会はやはり百名近くの人が集まりますよね。そして午前中を御用、一時から信心研修、その内容を色々訪ねられますから話したことでしたけれども、合楽では一番研修では一番大きな会である。同時に一番素晴らしいと思うとこれは私が思うことはと言うて言うたことでしたけれども。神様の願いが成就する日として合楽では大事にしておるということです。十三日というのは神願成就の日だと。
私共が頼まんならん、いわゆる霊験を受けんならんという会合ではなくて、神の願いが成就する御神願成就の日としての信心。それを研修させて頂くにつけてだんだんいうなら本当は四六時中というかね、毎日毎日が神願成就のために私共が無条件の奉仕をさせてもらうと、無条件の商売をさせてもらうのは商売そのものを神様の御用として頂く。お百姓しよる人はお百姓そのものを天職として頂いて、ね、それこそ神様に使うて頂いておるんだという頂き方、それをはっきり分からせて頂くことのために十三日会があるんだ。
とにかく午前中の奉仕、午後の研修、それだけの方がみんなお弁当やらが出るんですから私の方でみんなが誤解してます、合楽はたくさん物があるから金やら米やらたくさんあるから信者に大盤ふるまいをやってるように皆思うておるようですね。合楽位絶対お下がりを下げないところはないです。他所の教会は大祭が終わるとさあいわゆるお役に立ったたくさんお供えをするところにはずっと配ってまわられる。合楽はそんなことは絶対しませんし、ね、同時に飲ませたり食わせたりといったこともないです。みんな弁当持ちなんです。もうみんなそれに関心してしもうとる。
ね、そしてその研修をみんながもうきちっと四時までですから時間が足らんようにある。それで次の十三日会が楽しいというくらいに早く切り上げてするといったような私が話を致しました。全然他所でいう研修とかとは違う。初めから一日を神様の御用に使うていただこうという生き方が十三日会に示される。そこへ生き生きとしたおかげを頂く。発表するでもただ自分がおかげを受けたことを発表するということは、そのまま神様へのお礼というような気持ちでみんなが発表する。それを最後に幹部の人達が色々その話し合うた検討する、最後に私の話を聞いてもらうというようなのです。これはいうならば信心である、ね、いうならば真心信心である。そこから神様をいうなら体験発表でもさせてもらわねばおれないほどしの体験が生まれてくる。そこから信心である。いわゆる信ずる心、神様を信ずる心が段々できてくる。それがあかぬけしていくところにです、ね、十三日の日だけが神願成就の日ではない、もう私共の日々が神願成就のために私共が奉仕するという生き方になるところに私はおかげが受けられると思う。
私はこの信心して霊験がない、みかげがないということはです、ただ自分が願いが思いが成就することが信心のように思うておるところにいわゆるおかげが受けられたり受けられなかったりなるのだと思うのです。信心とは決してただ自分の願いが成就してもらうということだけが信心だといったような思い方から、神恩報謝の心がいただけてその神恩報謝に奉仕する、報い祭る心の状態が信心生活である。そういう信心をさせてもらう、その内容としてです、例えばきちっとしたおかげを頂きたいためにはきちっとした信心をしないかと合楽では言われるわけです。
ね、どうしたらきちっとした霊験が頂けるだろうか、それはあなたがきちっとした信心をせんからたいということになるのです。どうして大きなおかげが頂けんじゃろうか、あんたが小さい信心ばっかりするからたい、ね。まちっと大きな信心すれば絶対大きなおかげが受けられるんだと内容が大きくなってくれば。それをほんな我がごつだけというようなことに日参りお参りしたところでたいしたおかげは、いわゆるそれだけのおかげなんです。信心してみかげのあるを不思議とは言うまじき、信心してみかげのない時はこれぞ不思議なることぞとおっしゃるのですから、大きなおかげが受けられる、これは不思議じゃある、なるほど自分の心がこまかったと悟らにゃいかんです。
信心して、ね、おかげがないことがそれこそ不思議なことだと言われるのに、どうして大きなおかげが受けられんじゃろうか、自分が小さいということ。どうしてきちっとしたおかげが受けられんじゃろうか、自分の信心の節度がないから、きちっとしたものがないからしだごたのおかげしか受けられんのだ。もうはっきりしてるわけですよね、金光様の御信心は。節度正しい信心するなら絶対節度らしいおかげが現れてくるです。大きな信心すりゃ絶対おおきなおかげが受けられるです。それこそ神願が成就することのためにといったような信心をするならば、もう神様が氏子のことはもう先回りをしておかげを下さるです。健康のことだって経済のことだって、ね、人間関係のことだっていわばもう難儀を水にしてしまうほどしにおかげが頂けるはずです。
昨日善導寺から帰らせて頂きましたら、ある親子の方がお参りに来られました。嫁さんがまあ時々ではあるけれどもまあ熱心に信心をさせる。都合がいい時には毎朝でも朝の御祈念に参ってくる。ところが家族の者が信心がない。第一ご両親がない、おじいさんが具合が悪いからずっとお願いにみえてあって大変おかげを頂いたけれども、おかげを頂いて先日からとうとう一カ月目に亡くなられた。その亡くなられ方があまりにも素晴らしかった。
お母さんが本当にあんたが合楽にお参りをしてくれるけんでとしか思われんて、あんまりたいした良かおじさんじゃなかった。けれどもです、その亡くなられる時の状態があまりにも神乍らな神々しいまでのお参りだったと。それで合楽にお礼に
出らなきゃ出らなきゃいけないと言うて、昨日がちょうど三十日になることですからその三十日の帰幽日になるのですからまあ帰幽祭というだけじゃないけれどもまあ玉串でも奉っておじいちゃまの好きな物でもつくってそしてお礼を申してくれということであった。それこそ私が帰ってからでしたから研修を一緒に三十分聞かれてそれから四時の御祈念に入らせて頂いた。
おじいさんに信心の話をするけど神様てん仏様てんというて自分方の仏壇さえもうおじいさんだけど拝んだことがなかった。それが亡くなられるちょっと前位からお先祖を拝まれるようになり、それから嫁さんが帰ってくると信心の話を聞くようになり、それから病気がひどくなって亡くなられたわけです。昨日私そのお礼を神様に申させて頂いておりましたら、お芝居にね、丸橋忠弥のお話しがありますよね。『丸橋忠弥が城の江戸城の堀端に出てそれからキセルをこう持ってその掘りの深さをためすというところに松平伊豆守が後ろからすっと雨が降ってますからね、傘を差しかけてやるという場面があります。
いうならば松平伊豆守がこれは曲者と思ったけれども大目に見てやって見逃してやるとこなんですけれどもね、確かにこうやってキセルをまかえて掘りの深さをいわばはかっておるところへ今まで降っておった雨が落ちないから手をこうするところがある。降ってないわけです。とこう見ると家に傘が差しかけてあるという場面』なんです。本当に長い間何十年間という間です、神も仏もあるものかと思うておったけれども嫁がいうようにです、私共は天地金乃神様のおかげを頂かなければ一日だって実は生きられんのだと、ね、その神様のおかげを頂かなければ生きることも死ぬることも許されないのだと。 生きても死んでも天地は我が住家と言われるからおじいちゃん、金光様を唱えることを覚えて下さいというて話したと。ね、いうならば際際になってです、自分は自分の力、生き方で生きて来たように思うておったけれどもそういう神様の自分が知らんなり、後ろから差しかけて下さる方のおかげで濡れんですんでおった事実を分からせて頂いてお国替えのおかげをいただいてもその神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだということだけが分かったんだなということを頂いたんです。素晴らしいですよね、いわば亡くなられる時でもです、いわゆる天地の大恩を分かった、そして何十年間天地の大恩の中に生かされて生きておりながら、天地に対する神恩報謝の心も起こさずにまたそれに報いるということもせずにして亡くなったということそれがね、分かっとかんと死んだままそれが分からんなりにしだごだな御霊になってしまう。
どうせ自分はこげなん地獄に行かなんじゃろうかというようなことしか分からん。そげん悪いこともしとらんとにという位のことでしょう。けれどもこの御霊様は亡くなられるほんのちょっと前ではあったけれどもです、今言うように神様の御守護があってこそ何十年間生きられたんだということ、しかもそれが生きても死んでもなら魂の世界に入ってもこの神様のおかげを頂かなければ立ち行かんということが分かったということ。後ろから傘を差しかけて下さっておった、だから濡れていないのだということ。ただそれだけが分かったというだけでもいうなら松平伊豆守が丸橋忠弥を大目に見てそこを逃してやるような、ね、おかげを昨日の御霊は頂いておった。
だから昨日の三十日のいうならば帰幽祭はいうならばもうこよない御霊として有り難い御霊のお祭りとまではいかんけれども、いうなら仏教的にいうなら供養になったということが言えるのです。信心しておかげを受ける、霊験を受けるということは当たり前のことであり、当然のことであって不思議なことではないんだと。信心してみかげのなき時はこれぞ不思議なれ、信心はしておるけれどもおかげが受けられんという時に皆さんが一つ一大不思議を感じなければいかんです。なぜ受けられんのか、なぜ自分がこんな難儀が続くのか、ね。しかも信心して神様にお願いしよるけれどもどうしてというところを分からせてもらうと、なるほどおかげの受けられんはずだということは自分自身にあったということが分かるです。
きちっとしたおかげを頂くためにはまず信心のどんな場合であっても節度をもて。ね、昨日の御理解でいうとです、それは実に平凡なことのようにあるけれども例えば毎日大祓信行をさせてもらう、これだけは行だから、これこそ大祓一巻、または五巻、十巻と自分の心の中に定めたとおりのことをです、毎日続けるということですから実に平凡のごたるけれども実をいうたら非凡だと。これを本当に行じぬかせていただく、その一言さえできてないんだもの、きちっとしたおかげを頂けるはずがないということが分かる。もう何十年信心しよるばってんいっちょんおかげが大きなおかげになってこない。ケシ粒のごたる信心しよる、竹筒にボウフラがわいたようなおかげしかいただかん、竹筒に水がたまったような信心、大海のような信心すりゃ鯨が住むようなおかげも頂かれると教えておられるのに、大海のような信心をせん、それで鯨のようなおかげを願うとったところでおかげを頂けるはずはないということを分からなきゃいかんです。
ね、おかげの受けられない時ほど不思議なことだと。どうして受けられんじゃかとそこに一大不思議を感じさせてもらうところからです、ね、これはきちっとしたそれこそ素晴らしいタイミングが生まれてくる、きちっとしたおかげを頂くためにはきちっとした信心せにゃならん大きなおかげを頂くためには大きな信心をしなければならない。私はそこんところを教祖はこのように教えておられると思う、信心しておかげのない時にはそれの方が不思議なことだぞと。それを銘々が不思議と感じない、というかごまかし半分というか信心はいい加減な信心をしておっておかげだけはきちっとしたおかげを頂きたいといったような信心ではおかげにならんということです。
だから自分のいうならば信心程度程度に応じてこれだけはと言ったような一心が貫かれる。なら大祓信行ということが言われる、ね、なら人は三巻も五巻も十巻もあげなさるけれども私はなら大祓一巻なら一巻これだけはどんなことがあっても御神前にしかも無条件に、ね、御神前に明々とろうそくをあげて生き生きとしたお榊を立ててそしてそこの前に座るだけでも有り難い。そのうえ大祓信行を無条件に唱えさせていただくところからです、明々とした生き生きとしたいうならば寸分間違いのない、狂いのない必要な時には必要なものが必ず頂けれるというようなおかげになってくるです。まあお明かりいっちょあげない、お榊は枯れとる、三宝はあっちむいたりこっちむいたり。ね、それで例えば拝んどったっちゃです、そういうきちっとしたおかげが頂けるはずがないです。そこにです、いわばどうしてしだごだなおかげであろうかという時には自分の信心のしだごだであるというそこに不思議を感じなければ、はあ自分はしだごだであるとか信心が小さいとか自分の信心の節度というものがろくそなかというようなことが分からん。節度がないということが分からん。
そのいうならば根本にんるもの、信心してというその根本になるものはです、昨日私が三人の御霊様のことを思わさせて頂いて頂いたように、この神様のおかげを頂かなければです、立ち行かないそれは生きても死んでもこの神様のお世話にならなきゃいけないということを、信ずるということが根本になるのです。だから頼む時願う時だけじゃなくて、これは信心があってもなかってもです、天地の御恩恵を受けて今日があるんだという信心がまず分かって感謝の生活をさせてもらわなければならない。その感謝の生活からいよいよ節度のある信心をさせてもらわなければならない。信心が段々と育ってまいりまして、小さい信心から大きな信心にすがっていく手立てをもたなければならない。そこからです、いうなら信心してみかげのなき時はという信心とはそういう信心だということを頂かなきゃいけません。
おかげのない時にはこれぞ不思議とおっしゃる、ね、そこに一つ本気で真剣にです、不思議を感じれる信心、おかげの受けられないことにですよ。おかげを受けることに不思議と感心してっちゃつまらん。ね、おかげの受けられないことに一大不思議を感じさせてもろうてです、なるほどおかげを受けられんはずだというものを分からせてもらう。ね、そこから信心がいよいよ清まらなければおられない、研かなければおれない、改まらなければおられない、きちっとした節度のある信心をさしてもらわなければ出来んことが段々分かってくる、その根本になるものはです、信心です。信ずる心です。この神様のおかげを頂かなければ生きても死んでも立ち行かんのだというそれを知らずにおった。
何十年間いうならば恩知らずの生活をしてきたことに気づかせて頂いて、そういう神様のおかげを頂いておるんだということを信じさせてもらうところから神恩報謝の心がおのずとわいてくる。この信心が信心です、信ずる心です。そして真心です、真心です、ね。いうならば真心の奉仕、いわゆる十三日会の精神です。そして神心、いわゆる神心。いよいよ自分の心が豊かに美しゅう、しかも無条件に神の心を心としていくといったような生き方を見つけていくことが信心です。信心とは信ずる心。信心とは真心、信心とは神心。そういうようなものが育っていってないならばです、いうならばおかげも成る程受けられないはずだということがいよいよはっきり分かります。どうぞおかげの受けられないことに一大不思議を感じさせてもろうてそれを分かっていく信心を頂きたいですね、どうぞ。